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“ONE KYUSHU”で世界へ!希望に満ちた未来を手繰り寄せる

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株式会社 一平ホールディングス 代表取締役社長村岡浩司さん

\ 村岡 浩司さんってこんな人! / ■宮崎の郷土料理「レタス巻き」。元祖を生み出した「一平寿し」次男として誕生 ■未知の海外、アメリカへ単独留学!学生起業と「廃業」を経験 ■経済圏は「KYUHSHU(九州)」。日本は今、世界から再発見されている! そんな村岡さんのこれまでの歩みとは?詳しく話を伺いました。

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ずっとひとりだった、幼少期。誰も知らない場所に行きたくて
 

自己紹介をお願いいたします!
株式会社 一平ホールディングス代表の村岡浩司(むらおか こうじ)です。 九州産の原材料のみで作られた「九州パンケーキミックス」など、九州産素材を用いた様々な加工食品を開発し、国内外に販売しています。また、カフェ・レストラン事業も手掛けています。 生まれは、1970年。宮崎市の街なかにある寿司屋「一平寿し」の息子として生まれ、宮崎市の街中で育ちました。
幼いときはどんな子どもでしたか?
小さい頃は、ひとりでいるのが好きな子どもでした。吃音症(※)で、言葉がうまく喋れなかったんだよね。 特に母音の音が難しくて「ありがとう」と言いたいのに、「あ」が発音できない。あえて「すみません」と言ったりしていました。 とにかく自分に自信がなかった。ずっと知らない場所へ行って違う自分になりたいと思っていました。

※話す際に音や音節、言葉が途切れたり繰り返されたりする言語障がいのこと

 


 

高校卒業後は、幼い頃から抱いていた「誰も自分のことを知らない場所へ行って、違う自分になりたい」という思いから、アメリカ・コロラド州のメサ大学へ進学しました。 山が好きだったので、山のあるところがいいなって思って。地図を広げて、突き抜けるロッキー山脈周辺にしたい、コロラド州の学校にしようと考え、周辺の学校にいくつか手紙を書きました。そして、返事のあったメサ大学に進学しました。

 

学生起業からの廃業。家業に入り、飲食業の魅力を知る 

村岡さんは、留学時に学生起業されたそうですね。どのような経緯で起業に至ったのでしょうか?
留学先の庭でよくフリーマーケットをやっていました。ある日、ヨーロッパのバイヤーが大きなトラックで来たんです。 そして「LEVI'S(リーバイス)の501を持っていないか?」と聞かれました。 よく話を聞くと、海外では古着が流行していることを教えてくれて。その出来事がきっかけで、ヴィンテージデニムを集めて販売する仕事を始めるようになりました。
ヴィンテージデニムの販売を経て、輸入販売業の経営を本格化されたんですね。
大学に通っていた時は、学生起業の真似事をしていました。その後、大学をドロップアウトして、21歳で一平寿しの2階で宮崎初の古着屋さんを始めました。 当時の宮崎には、古着やフリーマーケットの概念がなかったので、新聞に取り上げられたりもしたんですよ。古着以外にも、海外の車やアンティーク家具などを輸入販売していました。
宮崎に新しい文化の種を撒いたんですね!
アメリカで自分が見つけた新しくてユニークな文化を地元に持ち帰り、びっくり箱のように開けて宮崎の人に驚いてもらうことが、とても面白かったですね。 しかし、仕入れの失敗などもあり、だんだんと事業がうまく回らなくなってしまい、結果的に廃業してしまいました。 今も忘れない、28歳の5月5日。頭を丸めて寿司職人の父に「助けてください」とお願いしました。 そこから3年間は板場に篭り、寿司職人として修行に没頭していました。熱心というより、誰とも会いたくなかった。ほら、板場に居れば誰にも会わなくて済むでしょ? 留学前と同じように、「ここから逃げたい」「遠いところに行ってしまいたい」と毎日思っていました。 でもね、飲食業の魅力に気付いたんだよね。
それはどんな魅力でしょうか?
飲食業って、お客さんが「ありがとう」って言ってくれるんだよね。 ある日、常連客の人が帰る時に、振り返って「ありがとうね。今日も 」って言ってて。普通だと、お金をいただいた側が「ありがとうございます」って言うでしょ? お金を払ってもらって、しかも感謝してもらえる。事業を畳んでからずっと、「すみません」とか「ごめんなさい」としか言ってなかったので、ありがとうと言ってもらえたことが新鮮で嬉しかった。 飲食業って、なんて素晴らしい商売なんだ!と感動しました。ここから一気に、飲食業が楽しくなったんです。 もう一度何かチャレンジをしたいと思いながら、寿司職人を続けていたとき、ある転機がありました。 32歳の頃です。郊外型の飲食チェーン店が、急激に宮崎に進出して来たんです。危機感を覚えると同時に、可能性も感じ始めたのが、「タリーズコーヒー※」の事業でした。

※1992年にシアトルで生まれたスペシャルティコーヒーショップ。1997年に第1号店が銀座に誕生。以来、全国に広がった

なぜ可能性を感じたのでしょうか?
海外でスペシャルティコーヒーを提供する場が求められているのを目の当たりにしたからです。 まず19歳の時。バックパッカーとして、アルゼンチンに1ヶ月滞在していたんです。 当時のアルゼンチンはかなりのインフレーション。物価は上がり、お金の価値が下がり、自動販売機の周りに硬貨が捨ててあるくらいでした。でもそれでも、カフェだけは若者たちで賑わっていたんです。 アメリカに留学していた時にも、スペシャルティコーヒーの登場で概念が変わる様子を目の当たりにしました。 それまでのアメリカのコーヒーは、雑多に配られる薄いお茶といったイメージが強かった。無料で、何杯も、おかわりをもらえるのが普通でした。しかし、スターバックスコーヒーのようなスペシャルティコーヒーが登場したことでコーヒーの概念が一気に覆されました。 現地の人々の憩いの場でありサードプレイスとなり、コーヒーに高いお金を払うことが当たり前になったんです。 タリーズコーヒーが日本に上陸したことを知り、同じような現象が日本でも起こるんじゃないかとワクワクし、2002年にタリーズコーヒーを始めました。
過去の海外での経験がつながり、タリーズコーヒーを始めることになったんですね!他に、海外での経験が今につながっていると感じることはありますか?
「誰も自分のことを知らない場所へ行きたい」という思いだけで留学し、日々流されるように生きていました。そんな僕でも、出会った人や音楽、異文化の思想に触れる中で、価値観は180°変わりました。
どのような変化があったのですか?
色々なアングルから、多面的に物事を見れるようになったと思います。 僕がある人に教えてもらったことで印象に残っているのが「物の見方・考え方・方向性・何が正しいか、の4つを常に考えなさい」ということ。 例えば、このガムテープ。
これを横からしか見たことのない人は、上から見ると丸いってことは分からないから、四角にしか見えない。でも、これを立体的に見ようと思ったら、斜め上から見ないといけないわけです。そうすると、これが円柱形だってのが分かる。 自分が住んでいる場所や家庭の中での価値観、学校の中での価値観と、1回外に飛び出して感じた違いを自分の中で消化したことで、多面的な見方を身につけることができたと思います。

 

世界で再発見される日本。ONE KYUSHUな未来は希望に満ちている

村岡さんはONE KYUSHUの概念を軸に事業を展開されていらっしゃいます。そもそも「ONE KYUSHU」とはどのようなことなのでしょうか?
「ONE KYUSHU」= 九州を一つの広域経済圏として捉える概念です。 僕たちは、宮崎の中でしか経済活動できないと無意識に思い込んでしまっている。でも、これからの未来を生き抜くためには、県境という枠組みを溶かし、九州全体を一つの大きなマーケットと捉えなければいけない。 もっと大きな枠組みでの地産地消の考え方が必要だと思っています。
ONE KYUSHUの概念を考えるようになったきっかけはあるのでしょうか?
2010年に口蹄疫、2011年に新燃岳の被害に襲われ、経済も閉鎖的になる中で「宮崎だけに留まって戦っていては、会社の未来はない」と感じたんです。
廃校をリノベーションした本社「MUKASA-HUB」 https://ippeicompany.com/mukasa/
ちょうどその期間に加工食品分野に事業展開するために「九州パンケーキ」を開発しました。 口蹄疫や新燃岳が商品にどう影響するか分からない状況で。それでも開発当初から海外での販売も考えていたので、宮崎ではなく、「九州」をコンセプトにネーミングや商品開発を行っていました。 九州を一つの固まりとして見ると約1,400万人が住んでいますし、お隣の台湾まで広げたら4,000万人の経済圏になる。決して小さな商圏ではないですよね?しかも、九州がアジアと勝負しようとした時に、台湾や韓国を含めると1億人を超える大きな経済圏になるんです。 九州はアジアに近いですし、ポテンシャルもあるはずなんです。
世界的に見て日本は、人口減少や少子高齢化など、未来を悲観する声がよく聞かれます。村岡さんはどのように考えられますか?
1980年代〜1990年代までの間、日本が世界の経済成長についていくためには、資本主義の国アメリカの思想をビジネスに取り入れるべきだという雰囲気があったように思います。 スピード感のない人間はダメな人間。優柔不断で意思決定が遅い人間はダメ、というように。 そして僕たちは、それが劣等感として染み込んでしまっている。
確かに。スピード感をもって何かをすることが優れていて、意思決定が遅いのは悪だと、なんとなく感じてしまっているかもしれません…。
でもね、「優秀不断」って違う角度から見ると、「思慮深い」ってことでしょ?ビジネスにおいて、相手と誠実に付き合いたいと思うからこその感覚だと思うんです。 そういった、日本人が今まで持っていた精神性、公平な優しさみたいなものが、再評価されつつありますよね。 だから、僕は日本の将来を悲観してはいないんです。
日本特有の価値観が再評価されているのは、なぜだと思いますか?
コロナや戦争などで、世界情勢が急激に変化し、貧富の格差が大きくなったこともあると思います。 あとは、やっぱりソーシャルメディアの発達なのかな。 SNSの言語が簡単に翻訳できるようになったおかげで、言語の隔たりによる誤解が解けて、日本文化のおもしろさが世界に発信されるようになった気がしています。 今度は僕らがこの機会を活かして、自分たちの暮らしの中で経済を作っていかないといけないよね!
日本らしさを活かした経済ですか?
日本的ビジネスのあり方が詰まってるのが、この「ONE KYUSHU」だと思うんです。 かつてのアジアのショーケースはシンガポールでした。でもそれは経済的な話で、日本の価値観が再評価されるにつれ、経済だけではないビジネスの在り方、違う軸が生まれ始めた気がします。 日本の人口が減ったり、日本の国力が弱っていくっていうネガティブな面だけ見るのではなく、九州という新しい捉え方で経済を考えた方が僕はすごく希望があるのかなと思っています。 あと県境だけでなく、年代も溶かして混ざり合う世の中であってほしいですよね。
年代を溶かすとはどういう意味でしょうか?
Z世代とか〇〇世代って、よくマーケティングをする上で言われるでしょう?それってすごく便利な概念なんですよね。 でも世代をカテゴライズして、分断させてしまうとすごく勿体無いような気がしていて。 例えば、20代で起業した人の周りでは、うんと年上の世代をチームに引き入れると面白いと思うし。逆に40代や50代の起業家は、時代に合わせたアイディアとかひらめきみたいなものが絶対必要になってくるので、若い世代をチームに入れて一緒に何かをするとイノベーションが生まれるはず。 県境に限らず、年齢も性別も溶け合った世界が一番良いような気がしています。

 

お仕事必需品は「iPhone」!休日はサウナにハマってます


 

お仕事の必需品を教えてください!
iPhoneです! デフォルトでついているスケジュール機能には、スケジュールもタスクも全て入れています。 あとは、iPhoneのメモ帳機能が使いやすくて、ちょっとしたことでもとりあえずメモに残しているんです。後から見直して、いらないものは消したりして、アイデアをシンプルにしていきます。
色々な事業を展開されていて毎日とてもお忙しいと思いますが、リフレッシュしたい時はどのように過ごしていますか?
サウナが併設されている昔ながらの温泉を探して、そこを巡って過ごしています。 最近では高原町の極楽温泉や、えびの市の白鳥温泉上湯が好きですね。

辛いことは、かならず終わりが来る。ともにチャレンジを!

これまで、たくさんの苦難もあった中で、 乗り越えて前に進めたのはなぜだと思いますか?
いつもね、吃音症で上手く喋れなかった幼少期の自分を思い出すんです。 あの時の自分の唯一の夢は「人前で話せるようになる」ということ。 バカにされても、いじめられても、前に進んでいれば、いつの間にか大人になっていたし、夢は叶っているんだよね。 自分に自信がないのは、今も同じ。でも何かうまくいかなかったり辛いことがあったとしても、諦めないで前に進めば、気付いたらいつか乗り越えて未来はやってくる。 ドラえもんみたいに未来の自分がタイムスリップして励ましてくれる感覚というか、人生には未来に続く道があると信じることが大事だと思っているんです。
中国の書物「易経」に、「潜竜」という生き物が出てくるんです。文字通り、池や淵にひそんでいて、天に昇らない竜のことを指します。 人生にも同じように潜竜の時期が必ずあって、辛くて何もかもうまくいかない時期がある。でも、時がきたら水面に顔を出し、キョロキョロと周囲の様子を伺って、大きく飛躍する。 大空に飛び立っている竜の姿はキラキラしてかっこいいけど、世の中の道理や摂理は、水に潜っている時期にしか吸収できないんですよね。 苦しい時は、色々なことを吸収できる機会だと思って、旅に出たり人に会ったり、今までの自分と違うことを沢山やって、色んな目を養う期間にしたら良いと思います。 辛いことはずっと続かないので、そのうちびっくりするぐらい霧が晴れたような瞬間に出会えるんじゃないかな。
最後に、宮崎の若者へメッセージをお願いします。
以前は、友達と馴染まないと怒られたし、周囲と一緒に行動できなかったらおかしな人に見られていたよね。でも最近、地元グループの中に所属しなければならないという息苦しさから解放された気がします。 僕はどこかに属している何者ではなく、僕は僕。やっと自信をもって捉えられるようになりました。 それは、今が個の時代になってきたからだと思う。 その人の本質とか真の才能みたいなものが見える時代になってきたので、物理的に1人だとしても、自分と同じ興味関心や似たような思想をもった人がどこかにいて、SNSなどを使って繋がることができる。 もし誰かと繋がりたいと思ったら、無理して合わない人と一緒にいるより、その人たちと繋がるっていう選択肢も生まれたよね。 宮崎でチャレンジしたいことがあったら、ぜひ気軽にSNSで相談してきてください。InstagramもXも、本名でやっています。 一緒に新しい宮崎を創っていけたら嬉しいです。年齢や県境を溶かして、宮崎を、九州を、世界があこがれる場所にしたいと思っています。

 

 

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